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2020.08.08

本番で最高の結果を出すために。ロス五輪の失敗で学んだこと【瀬古利彦の今だから言える話Vol.1】

瀬古利彦

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皆さん、こんにちは。瀬古利彦です。

私はかつてマラソンランナーとして3度、オリンピックの代表になりました。その後は指導者を経て、現在は日本陸上競技連盟のマラソン強化・戦略プロジェクトリーダーとして、来たる東京五輪で日本勢が活躍できるよう仕事をしています。

人生のほとんどを捧げてきたマラソンから私が学んだこと、経験から得たことをここではお伝えしたいと思います。

衰え知らずの23歳。モスクワ五輪のボイコットも乗り越えられた

1983年の東京国際マラソンで日本最高記録(当時)を樹立。圧倒的な強さを見せ続けたが、同時に周囲からのプレッシャーにも苦しんだ

1983年の東京国際マラソンで日本最高記録(当時)を樹立。圧倒的な強さを見せ続けたが、同時に周囲からのプレッシャーにも苦しんだ

私は早稲田大学入学と同時に中村清先生というマラソン指導者と出会い、生涯の師として長く教えを受けてきました。
お会いしてすぐの時から、「中村先生から言われたことはすべてやってみよう」と考え、実践しました。指導者と選手の間には信頼関係が必要ですから、今、振り返ってもその考えは間違っていなかったと思います、実際、私は力を伸ばし、マラソン3戦目、22歳で初優勝できました。

マラソンはつらく厳しいスポーツですが、勝てるようになると楽しくなってきます。もっと大きな大会で勝ちたいと欲も出てきますし、記録も伸ばしたいと思うようになります。当時はまだ若くマラソンの何たるかを理解していなかったですし、怖いもの知らずでした。日々、成長が実感でき、本当に楽しかったですね。

1980年、モスクワ五輪代表に選ばれました。この時には私はすでに優勝候補として名前が挙がっていました。
しかし、当時の世界は東西冷戦の真っただ中の時代。最終的にアメリカを中心とした西側諸国はボイコットを決め、日本もそれに追随したのです。

この決定に落胆しなかったといったらウソになりますが、当時はまだ23歳。4年後に頑張ればいいと気持ちを切り替えられました。まだ若くて自分が年を取るなんて考えられなかったんですね。4年後に衰えているかもしれないと想像できなかったので、あまり悔しさは感じませんでした。

そしてモスクワ五輪後の同年12月、福岡国際マラソンで私はその金メダリストに勝って優勝を果たしました。自分が世界一強いと思ったのはこの時です。

マラソンは1年に何本も走れるものではありません。その中でいかにして勝負強さを身につけるか。
私は練習の中で実戦の場を作り、緊張感を作っていました。レースの前の3ヵ月の間にひとりでタイムトライアルを10回ほどやったのです。ここでは絶対に失敗してはいけないと、朝から緊張感で足が震えるほど、自分にプレッシャーをかけていました。また練習で42.195キロ以上を何度も走り、距離への怖さを払しょくしました。

それを繰り返すと試合は楽なものです。マラソンはひとりで走るより、周りに選手がいたほうが楽に走れますし、練習よりも距離が短い。もちろん本番ですから緊張はします。しかしそれを乗り越えるだけの練習をしていたので、いつもスタートラインには自信を持って立っていました。

ロス五輪での大失敗。追い込みすぎが仇に

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1984年のロサンゼルス五輪でも代表に選ばれました。私にとっても日本にとっても8年ぶりのオリンピックです。幻となったモスクワ五輪以降、私は勝ち続けていましたので、優勝候補として周りからの期待をひしひしと感じました。それに伴い、中村先生の課す練習もどんどん厳しくなります。

何としても金メダルを取りたいとの思いから、何かひとつ自分の好きなことを断とうと考え、本番の1年半前から大好きなビールを断っていました。普段は厳しい中村先生もリラックスのためにとビールを飲むことを容認していましたが、自分の意志でやめたのです。
その結果、リラックスできる場がなくなってしまいました。報道陣にも注目され続け、練習をしていてもファンの方から“頑張れ”と声をかけられましたが、これ以上どう頑張ればいいんだ、というくらいまで自分を追い込んでいたので、その言葉にも苦しみました。

そして本番直前、私はオーバーワークから体調を崩してしまったのです。

スタートラインに立った時にはホッとしました。あと2時間少々で全てが終わると思えたからです。結果は14位。皆さんの期待に応えられませんでしたが、そこまでの歩みを含め、自分でもよく頑張ったなと思います。

逃げは弱さではない。大切なのは、自分の感覚に正直であること

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今振り返ると、「こうすればよかった」と思う点がいくつかあります。

ひとつはもっと自分の意見を言えばよかったということ。監督から言われた練習を信じてやり続けてきたために強くなれましたが、ロサンゼルス五輪の時点では自分なりにマラソンの練習方法やコンディションの管理の仕方が分かってきていましたし、何より疲れていました。「少し休ませて欲しい」と言える勇気があればよかったと思います。ただ当時、それを言うのは自分から逃げているような気がして、怖かったのです。

また息抜きをやめてしまったのもよくなかったと思います。やはりメリハリは必要です。24時間、仕事だけを考える生活では決していい結果は生まれません。

そしてプレッシャーをひとりで抱え続けてしまったのが何より良くなかったと思います。オリンピックの1週間前に私は耐え切れず、実家の母に電話をし、そこで苦しい胸の内をすべてさらけ出し、大泣きしました。そうしたらスッと気持ちが晴れたのです。
もっと早くに打ち明けていればそこまで苦しくならなかったはず。行き詰まった時は誰かに打ち明け、話を聞いてもらうべき。それは決して弱さはないのです。

私は日頃の練習から緊張感を維持し、勝負強さを磨いてきました。しかし、それを本番で発揮するためには心身のコンディションを整えないといけません。自分の感覚を信じ、そして時には周りの力を借りることも時には重要。私はそう考えています。

瀬古利彦の今だから言える話vol2は8/9公開!

瀬古 利彦(せこ・としひこ)さん

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1956年7月15日生まれ、三重県出身。
四日市工業高校時代は中長距離の全国トップ選手として活躍。早稲田大学入学後は1年時からマラソンに取り組み、1980年代、世界屈指の長距離ランナーとしての地位を築く。海外のマラソンでもロンドン、シカゴで各1回、ボストンで2回優勝と勝負強さを見せた。オリンピックのマラソン代表には日本がボイコットした1980年モスクワ、84年ロサンゼルス(14位)、88年ソウル(9位)と3大会連続で選出。マラソンの通算成績は15戦10勝。現役引退後は指導者となり、1990年には母校早大を箱根駅伝総合優勝に導く。現在は横浜DeNAランニングクラブエグゼクティブアドバイザーを務める一方、2016年から日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトリーダーとして活動している。

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