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2020.03.18

死者64万人想定のコロナ緊急宣言は妥当なのか|インフル特措法の想定に第一人者が唱える異議

東洋経済オンライン

緊急事態宣言が出れば人々の移動は大きく制限されるかもしれない(撮影:大澤 誠)

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緊急事態宣言が出れば人々の移動は大きく制限されるかもしれない(撮影:大澤 誠)

国民の私権を制限する緊急事態宣言を可能とする新型インフルエンザ等対策特別措置法(「新型インフル特措法」)の改正案が成立し、3月14日に施行された。

安倍晋三首相は記者会見のなかで「宣言を出すような状態ではない」と慎重な姿勢を示したが、そもそも新型インフル特措法は、国内で最大64万人もの人が死亡するパンデミックを想定したものであることをご存じだろうか。

当時「そんな被害をもたらす新型インフルエンザは出現しない」と疑問を呈した専門家もいたが、病原性の高い未知のウイルスを想定して「等」の文字を挿入することで折り合いがついたという。その成立経過をたどると、緊急事態を宣言する正統性さえ危うくなってくる。

新型インフル特措法が成立した2012年、北海道大学人獣共通感染症リサーチセンター統括の喜田宏特任教授のもとに、内閣府の幹部らが訪ねてきた。新型インフルエンザ対策の計画や措置を定める特措法について意見を聞かせてほしいという依頼だった。喜田氏は8時間にわたってウイルス学の立場から説明したうえで、「特措法は不要だ」と伝えたという。

喜田氏が立法に反対したのは、当時の政府が前提としていた新型インフルエンザが、あまりにも現実離れしていたからだという。

被害想定が大きすぎた

まずは政府が試算していた新型インフルエンザによる被害想定だ。米疾病対策センター(CDC)が示した推計モデルに従って、スペインかぜ(1918年)とアジアかぜ(1957年)による致死率を当てはめるなどしてはじき出した推計死亡者数は、17万~64万人となっていた。

このとき新型インフルエンザ特措法が検討された背景の1つに、鳥インフルエンザウイルスによる人的な被害が広がっていたこともある。鳥インフルエンザウイルスは、基本的にはヒトには感染しない。ところが、H5N1の鳥インフルエンザウイルスが中国や東南アジアで人に感染して多数の死者を出していた。2003年12月から2009年1月の間に403人が発症して、うち254人が亡くなっている。

ウイルスに感染した鶏などに濃厚接触した人に限られていたが、一部の専門家からは、この病原性の高い鳥インフルエンザウイルスがヒトの間で感染・伝播する性質を身に付けたら、莫大な被害が出ると警告されていた。

2009年2月に改訂された「新型インフルエンザ対策行動計画」の総論には、背景としてH5N1ウイルスが流行して死亡例が報告されていることが明記されている。そのうえで「このような鳥インフルエンザのウイルスが変異することにより、人から人へ感染する能力を獲得する危険性が高まっている」などと行動計画を策定した経緯が記され、17万~64万人の推計死者数が紹介されている。

ところが、その数カ月後に始まった新型インフルエンザのパンデミックウイルスは、H5N1ではなくH1N1という予想外のものだった。しかも死者は、そのシーズンは約200人で、翌年からの季節性インフルエンザ関連の死者数は5000人前後に跳ね上がっている。もちろん季節性のインフルエンザには、H3N2やB型のウイルスも混在しているが、季節性のインフルエンザになってからの死者数のほうが圧倒的に多いことがわかる。

2009年に発足した民主党政権は、17万~64万人の推計死者数と、「病原性の強いH5N1ウイルスが新型になって襲ってくるのは秒読み段階」という一部の専門家の警告を背景に新型インフルエンザ対策を進めていった。その1つが、新型インフル特措法の立法だった。

喜田氏は、その過程で内閣府の役人から相談を持ちかけられていたのだ。だが、「新型インフルエンザで、それほどの死者が出るわけがない」と一蹴した。

「非科学的」に映った理由

喜田氏といえば、1968年の香港かぜウイルス(H3N2)について、カモ由来のウイルスがアヒルなどの家禽を経由してブタに感染し、ヒトのアジアかぜウイルス(H2N2)がブタに同時感染して生まれたことを突き止めた、人獣共通感染症の第一人者だ。その喜田氏にとって新型インフル特措法案の根拠は、あまりに非科学的に映った。

なぜ非科学的か? 理由は2つある。

第1の理由が、スペインかぜやアジアかぜが流行したときとは比べ物にならないほど医療が進歩していること。スペインかぜでは感染者の多くが、ウイルスそのものではなく2次感染による細菌性肺炎で亡くなったのだが、当時は細菌に効く抗生物質がなかった。明らかに医療水準が異なるスペインかぜ当時の致死率を、単純に当てはめて推計した死者数に違和感を覚えたという。

第2に、鳥インフルエンザウイルスがヒトに感染するのは、その人が鳥型のレセプター(ウイルスをやり取りする受容体)を持っていたからで、鳥インフルエンザウイルスがブタを介さずにヒトからヒトへ感染する能力を持つことは考えられない。

つまりヒトからヒトへの感染の広がりは、簡単には起きないのだ。さらに言えば、新型インフルエンザウイルスに変異する可能性はH5N1だけでなく、144通りの亜型のインフルエンザウイルスのすべてにある。

喜田氏は、ありえない根拠と被害想定によって、私権を制限する緊急事態宣言が盛り込まれた法律には反対の意思を示した。

それでも2012年4月、緊急事態宣言を盛り込んだ法律が成立した。喜田氏のもとには内閣府の役人から電話があったという。被害想定に疑問を持つ喜田氏の考えに納得しつつも、今後、病原性の強い未知のウイルスが出現したときのために「新型インフルエンザ等対策特措法」の「等」を入れた、との説明だったという。

こうしてできた新型インフル特措法に、安倍政権はコロナウイルスを適用する法改正を成立させた。喜田氏は、今でもこの法は「悪法」だと言い、コロナウイルスを適用することにも反対だ。

今回の法改正によって新型コロナウイルスでの緊急事態宣言に疑問を持つ専門家は喜田氏だけではない。

新型インフル特措法の成立時に厚生労働省の専門家会議の議長を務め、現在は新型コロナウイルスの専門家会議のメンバーである岡部信彦・川崎市健康安全研究所長は、「対策を取るためには(事前に)法はあってもよいが、今回の新型コロナウイルスのレベルで宣言するのは、経済的にも社会的にも混乱を招くおそれがある。宣言は抑制的であるべき」と話す。

安倍首相にとって、この緊急事態宣言のハンドリングには政権の浮沈がかかっている。3月9日の参院予算委員会の答弁で「患者数の急速な拡大といった事態に備え、緊急事態宣言の発出等を可能とする法案の提出を予定している」と述べるなど「緊急事態宣言」に前のめりだった。

強権発動は妙手

ある意味で、こういった非常時における強権発動は妙手だ。抑え込みに成功すれば英雄視される。仮に緊急事態宣言を出して効果がなかったとしても、それはウイルスが強大ゆえのことであって、責められることはないだろう。新型コロナで初動の対応が後手に回ったと批判されている安倍首相からすれば、「攻め」の政策で国民にアピールできる材料の1つが、緊急事態宣言を発動できるような法改正だったと見ることができる。


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死者数が中国に迫るイタリアやイランなどの状況をみると、とても他人事とは思えない。外出の自粛や、さらには都市封鎖までもが現実味を増している。だが一方では、ウイルスの封じ込めを徹底すれば市民生活が奪われ、全世界で経済の停滞を招くのは明らかだ。

生活、経済、そしてパンデミックの規模やウイルスの病原性などの相対的なバランスが問われている。そのバランスを無視した政権浮上のための強権発動だとすれば、国の形をゆがめてしまいかねない。私たち国民も、パンデミックの恐怖に流されず、その本質を見極める冷静な目を持ちたいものだ。

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辰濃 哲郎:ノンフィクション作家

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