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2019.09.13

認知症でも「言葉にならない動機」は確実にある|脳科学者が注目する、自覚できない情報・感情

東洋経済オンライン

認知症の方の社会的な感受性とは?(写真:Halfpoint / PIXTA)

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認知症の方の社会的な感受性とは?(写真:Halfpoint / PIXTA)

アルツハイマー型認知症の実母との暮らしを通し、生活の中で感情の動きに着目することで、脳の伝達ネットワークを変える可能性があると説いた、脳科学者の恩蔵絢子さん。

働き盛りの30〜40代が抱えるさまざまな脳の悩みに答えた前々回記事、感情こそが認知症の希望であると語った前回記事に続き、今回は認知症の方の社会的な感受性や、意識にのぼらない感情の脈絡について話を聞いた。

無自覚な動機を見つめることは、人の根本を認めること

――前々回の記事で「私たちが理性と呼ぶものは、本当に信頼できるのか」という話がありました。人の脳には自覚できない情報がたくさんあり、理性と呼ぶ意識できる情報はほんの少し。それらを点でつなげて理性と呼んでいるとのことでした。

しかし認知症の症状が進むと、意識と無意識の境が曖昧になるように感じます。前々回は働き盛りの脳について考えましたが、認知症はどう考えたらいいでしょうか。

認知症の方であろうと健康な方であろうと、自覚できない脈絡が膨大にあるということは同じです。しかし認知症の方は、新しい出来事を覚えることが苦手になります。今日どんなことがあったのか、自分が今どう感じているか。またそれらに自分で気づいて人に伝えることが、健康な人よりも難しくなるのです。認知症の方の思いや行動の意味を推し量るには、周りの人がその人をよく見ることが必要だと思います。

私の母が初めてデイケア(通所リハビリテーション)に通ったとき、施設から突然いなくなりました。スタッフさん含め皆で探し回り、施設と家の中間地点で数時間後の夕方、どうにか見つかりました。本人からは理由を聞き出せませんでしたが、次に施設に行くことを嫌がらなかったことから推測すると、どうも母は初めて行った施設にただ慣れなくて、家に帰りたくなったようです。

認知症で時々問題になる徘徊は、理由もなく家や施設を飛び出すイメージがあります。ですが、母は迷いながらもしっかりと家へ向かって歩いていたことから考えて、「帰りたい」という強い気持ちがあって家路についていた。意識にのぼらない脈絡の部分、いわゆる動機を周りの人が見ようとすれば、異常な行動などはなくて、どんな行動であれ自然な行動に見えてくるのだと思います。

――私の母も徘徊というか、室内でも屋外でも私を強い力で引っ張りながら練り歩いていました。私は引っ張られながら、母の強い動機を感じていました。

お母様は、どんな感じでしたか?

――母はその頃、自分の感情をうまく言葉で表現できなくなっていました。でも私の手をすごい力で引っ張りながら、何かを真剣に探すというか、口にはできない何かを完遂させようとしていました。

お母様の言葉で言えない動機に寄り添っていらっしゃるから、横山さんのお母様は安心していらしたでしょうね。

第三者から見たら訳のわからない行動でも、近しい人が見ると理由をそこはかとなく感じることがありますよね。言葉にされていなくても「何かあるんだろう」と動機の部分に寄り添われていたら、人は安心するのだと思います。言葉にならない脈略に寄り添うとは、その人の根本を認めることなんですよね。

言葉にできない部分を認めてもらい安心するのは皆同じ

――確かに本人の脈絡に寄り添うと、安心した顔をしていました。母は不安からくる行動だと思うのですが、ちぎれたパスタのようなものをティッシュにくるんで、あちこちの引き出しの奥に入れる癖があったのです。

恩蔵絢子(おんぞう あやこ)/1979年生まれの脳科学者。専門は自意識と感情。2007年に東京工業大学大学院総合理工学研究科 知能システム科学専攻博士課程を修了、学術博士。現在、金城学院大学、早稲田大学、日本女子大学にて非常勤講師を務める。著書に『脳科学者の母が、認知症になる ~記憶を失うと、その人は“その人”でなくなるのか?』『化粧する脳』(茂木健一郎との共著)、訳書にジョナサン・コール『顔の科学−自己と他者をつなぐもの』、茂木健一郎『IKIGAI−日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』がある(撮影:大澤誠)

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恩蔵絢子(おんぞう あやこ)/1979年生まれの脳科学者。専門は自意識と感情。2007年に東京工業大学大学院総合理工学研究科 知能システム科学専攻博士課程を修了、学術博士。現在、金城学院大学、早稲田大学、日本女子大学にて非常勤講師を務める。著書に『脳科学者の母が、認知症になる ~記憶を失うと、その人は“その人”でなくなるのか?』『化粧する脳』(茂木健一郎との共著)、訳書にジョナサン・コール『顔の科学−自己と他者をつなぐもの』、茂木健一郎『IKIGAI−日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』がある(撮影:大澤誠)

わかります。大事に思って取っておくんですよね。

――当初引き出しから見つけるたびに、私は母を怒っていました。でもある時から怒るのをやめて、施設の人の言葉をまねて、見つけるたびに母に「しまい上手!」と言い出したら、子どものように舌をペロッと出しておどけるようになって。ゴキゲンな状態が続くようになりました。

それは大きな出来事ですね。お母様は、しまおうとしていたことを横山さんにわかってもらえたんですものね。

よく幼い頃、自分でも理由はわからないけれど、ぐずってしまうことがありましたよね。うまく言葉にできないけれど、子どもなりに何となくイヤな気持ちがあって。そんなときに親に寄り添ってもらい「よしよし」と頭をなでてもらうと、心が落ち着く。「イヤな気持ちがわかってもらえた。言葉にできない動機の部分を認めてもらえた」と本人が思えると、心の安定につながるでしょうね。自分でうまく口に出せない時はとくに。

だから子どもでも認知症でも健康な大人でも、自覚できない動機の部分を人にわかってもらえると安心するのは、同じではないでしょうか。

――言葉にできない動機の部分を理解する話で思い出したことがあります。私の母は言葉で上手に表現できなくなっても、施設のスタッフさんの人物評が正確で、聞いている私のほうが驚かされることがありました。

お母様は体でいろいろと感じていらっしゃったのですね。

――私は当初、母は言葉でうまく表せないので「この人は寝るときの体位交換が雑だな」などと、体の繊細な感覚で人物判断をしたと思っていたのです。でも母は自分の動機を見極められるか否かで、スタッフの方の良しあしを判断していたのではないでしょうか。

身体的な判断もあったと思いますが、おそらくお母様の言葉にされない動機を読むのが得意な人とそうでない人がスタッフさんにいらして、お母様は動機を読むのが得意な人だと居心地がよかったのではないでしょうか。

私たちだって同じですよ。自分の中で当初考えていた道筋と違う形で目の前で物事が展開していくと、「アレ?」と不安に感じたり、居心地が悪くなったりしますよね。言葉にできない脈絡の部分をないがしろにされたり、邪魔されたりすると、どんな人でも心が苦しくなるんですよね。

施設のスタッフさんに関しては、その人自身の良しあしではなく、人間同士の相性が関係するのだと思います。

認知症の人の社会的な感受性は正常である

――認知症になったとしても、それまで地域でも会社でも人間関係を紡いで、社会性があったわけですから、突然病気になって人物評価ができなくなるほうがおかしいですよね。

そのとおりだと思います。実は、認知症の方の社会的な感受性は正常であるという研究結果が数多く出ています。

アメリカの研究者ロバート・レベンソンらは、アルツハイマー型認知症の人がパートナーと自分たちの問題を話し合うときの視線のやり取りを記録しました。

健康な夫婦間では、一方が「あなたのココがイヤなの」と話すと、話すほうは目をそらすけれど、言われたほうは相手の目を凝視するという視線のパターンが見られます。それとまったく同じで、認知症の人も不都合な問題を自分が話すときは目をそらし、話されている時は話し手をじっと見るということが明らかになりました。

認知症になったとしても、他人が自分をどう思っているかについてはとても敏感です。「これがイヤ」「あの人はちょっと……」という関心を、人は一生持ち続ける。なぜなら人は、人間と人間の間に生まれてきたわけですから、「相手は自分をどう思うのだろう」という自尊心に関わる内容は、一生尽きることのない興味なんですよね。

恩蔵先生が書いた脈絡の話の図(撮影:大澤誠)

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恩蔵先生が書いた脈絡の話の図(撮影:大澤誠)

ここで意識にのぼらない脈絡や動機の話に戻ると、認知症になるとこの図の上の部分、意識にのぼっている部分をつなげて論理として展開する力は確かに弱くなるかもしれません。今日何があったということを、意識的に保持していくことは難しい。それでも今日体験したことは、無意識の部分にはしっかり残っているのだと思います。

それが認知症になった後でも、われわれの「これが好き」「あの人はちょっと……」という選択能力を支え続けるのです。

理性的に論理展開できることよりも、私は好き嫌いや良しあしを瞬時に選び取る能力のほうが生物としてずっと大きいと感じています。またその判断は十分信用に足るものだとも思っています。自分の意識できるところはほんの一部で、われわれの意思決定はその背後の山の膨大な領域が担っていることが重要なのです。だから海馬が傷ついたとしても、人間の脳にはまだまだ希望があると思うんですよね。

脳で要約しない認知症の人はすべて本当のことを言う

――最後に恩蔵さんにお聞きします。認知症の方といると、「まったく正反対のことを言う」状況に出くわします。要は話す内容のどちらが本当だかわからないというものです。これはどう考えたらいいのでしょうか。

それは私も経験があります。でもどちらも本人にとっては、本当のことなんですよ。

母は昔から音楽が好きで、今でも友人と演奏会に行っています。あるコンサートから自宅に帰ってきた母に「今日の演奏会、どうだった?」と聞くと、「もうっ、全然よくなかったわ」と答えたのです。さすがに私も「ええっ?」と思うじゃないですか。「せっかくお友達が母を演奏会に連れて行ってくれたのに、まったく何てことを言うんだ」と。

それでしばらくして、もう1度母に聞いてみたのです。「今日の演奏会、本当はどうだったの?」と。そうしたら「すっごいよかったわよ」と満面の笑みで答えてきました(笑)。そこでまた私は「ええっ?」と驚くわけです。

でも落ち着いて考えたら、どちらも母にとっては本当なのだと思いました。母を連れて行ってくださった方は長年の親友です。電車に乗って演奏会に行って、ちょっとお茶をしてまた家に帰る。なんだかんだで往復6時間はかかったと思います。

親友とは今まで、余計なことを言わなくてもツーカーでコミュニケーションが取れていた。でも今までどおりには意思疎通が測れないところがあったのかもしれません。母にしたらそれは悲しい出来事ですから「全然よくなかった」わけですよね。一方で「あのバイオリンの旋律がよかった」という瞬間もあったでしょう。6時間もあったら、いろいろな感情が渦巻いて当然ですよね。

同じようにこの取材が終わって、私が誰かに「インタビュー、どうだった?」と聞かれたら「うん、何とか頑張った」と答えるかもしれません。前々回でお話ししたように、脳は概略やエッセンスをまとめる癖があるので、大方の人は一言で要約して感想をおっしゃると思います。

でもこの取材の最中も、私がまどろっこしい説明をして自分で苦しく感じたり、面白い質問をされて楽しいと思ったり、いろいろなことがありました。苦しい時間帯と楽しい時間帯の両方があった。矛盾したことを感じているというのが本当なのです。私と横山さんが感じた取材時の感情の波と同じように、認知症の人もいろいろな感情を持っています。

概略だけ押さえるのではなく、また意識にのぼっている部分だけに注目するのではなく、裏側にあるさまざまな状況、感情を意識する。多くの方が自覚できない情報や感情をもっと感じて生きていけば、社会も優しく変わると思うんですよね。

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横山 由希路:フリーランスライター・編集者

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