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2017.06.20

健康でありたい…その願いを叶える禅の考え方とは?【禅僧・藤田一照さんインタビュー1】

KenCoM編集部

現在、ビジネスマンを中心に話題になっているマインドフルネス。ストレスや不安と上手に付き合えるようになるといった効果が期待されていることから、Googleなどの企業が導入し、今では学校などの教育現場にも取り入れられています。

そんなマインドフルネスのルーツは、仏教の一形態である「禅」にあるということをご存知でしたか?禅については「お寺で坐るアレ…?」という漠然としたイメージですが、その正体はまだまだ知られていません。今回はそんな「禅」について、逗子の山里にある茅山荘の管理人で禅僧の藤田一照さんにお話しをお伺いしてきました。藤田さんは、禅が解消してくれる問題は、ストレスや不安などではなくもっと深いところにあると言います。それは一体なんなのか、禅の本来の目的について解き明かしたいと思います。

お話を伺った人:藤田一照さん

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1954年、愛媛県生まれ。
灘高校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。
院生時代に坐禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。
33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導する。2005年に帰国し現在も、坐禅の研究・指導にあたっている。
現在、曹洞宗国際センター所長。 著作に『現代坐禅講義 – 只管打坐への道』、共著に『アップデートする仏教』、『安泰寺禅僧対談』、『禅の教室』、『青虫は一度溶けて蝶になる』など、訳書に『禅への鍵』、『法華経の省察』、『禅マインド ビギナーズ・マインド2』など。

坐禅って一体何か、どうやればいいのか

今の人たちは何かに寄りかかって生きている

――以前、坐禅体験会のようなものに参加したことがあるのですが、正直雑念だらけで難しいなぁと思ったんです。どうすればよいでしょうか?藤田さんは禅をどのように伝えているんですか?

坐禅をする時って、みんな「一生懸命頑張ります!」って、力んでやる人が多いんです。でも、そうやって体が緊張すると、脳に余計な刺激がいって、そのせいで妄想や雑念がとかが余計に湧いてくるわけです。禅においては、こうしたエゴの頑張りは困ったものになる。だから、僕は頑張らないためのワークショップをやるんです。例えば、僕はFacebookで「全国卵立て同好会」というグループに加わっていて、これは卵を立てた写真を送ると誰でも入会できるっていうものなんだけど(笑)。

生卵は力まないでバランスで立ちます。人間の体って体重の80パーセントが液体だと言われています。伸縮性のある皮袋の中に液体がたくさん溜まっていて、その中に内臓や骨が浮かんでいる。そういう柔らかいからだのイメージで、身心共に調った坐禅をすることを強調しています。「一生懸命」ではなく、「丁寧」がキーワードですね。

――卵を立たせることと、禅には何か関係があるんですか?

今の人たちってみんな何か寄りかかるものを探して、それに頼って自分を保とうとすることが多いのではないですか。自分の中にある力をフルに発揮して、自分の足で立たないで、外側にあるものに頼る。でも、卵ですら寄りかからずにまっすぐ立つことができるわけです。そこから学ぶことは多いと思うんですよ。

大人と書いて、禅では「ダイニン」と読みますが、これは「人間として成熟した、自立した人」という意味なんです。自分の足で立っている人です。僕らはだいたい「小人(ショウニン)」なんですよ。人間として未成熟なんですね。僕らは、図体だけは一人前かもしれませんが、まだ人間としては成就できていないんです。「頼るもの」や「寄りかかるもの」があるからです。禅では、何か頼るものを外に探し回るのではなく、自分の足で立つため(大人として生きるため)の力を自分の中に見つけなさいと言うんです。でもそれは、単に「頑張れ!」というのではありません。

失われてしまうものに頼らず、自分の足で立つことを学ぶ

――頼るもの。それはどういう意味でしょうか?

僕たちは、どういうわけか自分が信じられないので、何か外のものに寄りかかって、それで自分を支えようとしています。権威や制度とか地位、肩書、何かそういった外的なものに頼らないとだめだって、知らないうちに思い込まされているじゃないですか。例えば、学校があるのにさらに塾に行かなきゃいい学校に入れないとか。自分が持っている能力や美貌、若さ、健康なんかも、ちょっと条件が変わったり、時間が経てば、失われていくものなんです。でも、人間は寄りかかれるものがなくなると、また別のよりどころを探してしまう。こうしたことをずっと繰り返していないか。「寄りかかれることができるような確かなものなど、この世に一つもないぞ。」というのが仏教の基本的テーゼです。

昔なら、十代で結婚したり、家督を継いだり、一人前扱いされていたのに、今の二十歳代の人って、昔の人たちに比べたら、まだ精神的に未成熟な人が多いでしょう。独り立ちしたり、結婚するのも遅くなってきていますよね。だから、自立した大人になるということがだんだん遅くなっている傾向にあるんじゃないですか。これをどう考えるか、ですね。

必然的に、何かに頼らなければいけないという依存の時期が長く続くことになってしまうわけですよ。外見的に大人になっても、依然、何かに頼らなければ生きていけないんじゃないかという不安を感じる。それを自覚して、自分の足で立つんだっていう意識にシフトしていかないと、偉そうな顔していても、魂は未成熟なままかもしれない。ぼくは「こどな」って呼んでいるんですけど、大人と子どもの間の中間にいるような存在になっている。大人の恰好をしているけれど、中身は子どもっていうのが「こどな」ですね。

とはいえ、坐禅もマインドフルネスも魔法じゃない

――それでは、坐禅をすることで自立ができるようになるんですか?

坐禅は魔法じゃないから「やればすべてが上手くいく」というわけではないです。

正しく坐禅をするためには、その背景にある仏教の考え方をきちんと学ばなければ深まっていきません。それから、坐禅の土壌になっている日常生活もきちんと調えていく必要があります。坐禅するというのは、坐禅だけの問題じゃなく、人生まるごと全体に関わることなんです。

だから、坐禅が私の問題を都合よく解決してくれるかというと、そうではないんです。そういう考え方自体がすでに何かに寄りかかっているということになる。僕らは坐禅やマインドフルネスに、魔法的な力を自分勝手に期待しちゃうところがあります。仏教が大事にしている考え方で「縁起」というものがあります。それが起こるような諸条件が揃わなかったら、いくら頑張っても結果はついてこないということですね。

禅で考える”健康”とは

欲しい欲しいと手を出しても根本解決にはならない

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――うーん…、難しいです(笑)。

多くの人は禅やマインドフルネスに魔法的な効果を求めていますよね。つまり、求めたら、それに見合うモノがうまく手に入るって、根拠もないのになんとなく期待しているわけですよ。こういうものが欲しいと思って、一生懸命に手を出して、そこに何か期待通りのものが落ちてくるような気がしている。

だけど、いくら欲しいと思ってもそれがやってこない時もある。もしかしたら、手を出すことが、欲しいものを遠ざけていることだってあるかもしれない。禅で大切にしているのは、ください、くださいって、物欲しそうに出している手をずっと逆に元の方にたどっていって、物足りたいと思っている自分自身の姿を深く観るということです。

くださいって手を出している人の手に、期待通りのものを置いてあげれば、そりゃ流行るかもしれませんが、でもそれは、根本的な解決じゃない。一時的に満足しても、また手を出し続けてしまうでしょうから。

坐禅をすること、悟りを求めることは生命力

――坐禅をしたいって考えることも、求め続けることになってしまうんですか?

手を差し出し続けさせているのは、「物足りようとする思い」なわけですよ。つまり、自分が物足りないから、もっとくださいって手を出すんでしょう?これは人間の欲望だからきりがない。

じゃあ、「悟りたい」とか「坐禅がしたい」というのも欲望ではないのかと聞かれると、それは違うと思います。そういったものは欲望ではなく、生命力と言えますね。僕らが欲望と呼ぶものよりも深いところからくる願い、です。

たとえば、植物は種をまいて条件が揃ったら芽が出て大きく成長していきますよね。あれを欲望と言いますか?欲望ではなくて、生命力ですよね。種の中に生命力があって、条件が揃うと小さな種から、何十年、何百年もかけて大きな木に育つ。これはすごい生命力じゃないですか。よくアスファルトを突き破ったり、レンガの隙間から、きれいに咲いてたりする花を見かけませんか?ああいう自発的なエネルギーって僕らの中にもあるんですよ。人間として花咲きたいという生命力の発露、これが人を自立させる力じゃないでしょうか。坐禅はそういう力の表現なんです。

自らの生命力を発揮することで健康になれる

この生命力っていうのは人間を健康にしているものなんです。それに働きかけないで栄養ドリンクとか、健康食品や器具に頼って、外側から健康になろうとしているなら、禅の考え方とは違います。

ないものを外から輸入するんじゃなくて、すでに十分に持っている自らの内的力にアクセスして、それを精一杯発揮しようとする態度が、健康的な態度ですし、それが本当の健康をもたらすのだと思います。この僕らが持ち合わせている生命力にアクセスする道が禅なのではないか、というのが僕の考えです。

「健康」って漢字の二文字に共通する「聿」は右手で筆を持ち、その筆がまっすぐ立てているという意味の象形文字なんですよ。これはさっきから話してきた「寄りかかっていないで自分の足ですくっと立っていること(自立)」と見事に通じていますよね。

「老病死」とどう向き合っていくか

健康であっても、すべての生にはいずれ死が訪れる

ただ健康といっても、生命は必ず死に向かっていきますよね。どんな長い生命でも終わりがある。健康だからこそ、病気にもなるし、老いるし、死ねる。老病死は健康の敵じゃなくて、健康の証という風に考えたらどうでしょうか?健康のコンセプトの中には、病気になって死ぬってこともいれておかないといけないと思います。仏教的に言えば、病気とかを排除した健康観っていうのは非常に狭い。生と死を切り離した生命っていうのは不自然。どれだけ科学が進歩したとしても、必ず死は訪れる。寿命が100年から200年に延びるかもしれないけど、それって必ずしも幸せが増えるというわけじゃないです。

地位や権力など全てを失った後の人生観を持つ

若い時に自分が寄りかかっていた地位や権力、能力、お金って、いつか失われていくものです。けれども失ったあとも生きていかなければいけない。そうなると、そっちバージョンの人生観を持っていないとマイナスの人生になってしまいます。

あれもない、これもない、最後はないないづくしの負け戦の人生が出現してしまいます。でも、そんな最後に不幸せのどん底に落ちるような人生を生きる必要はありません。別な生き方をした方がいいに決まっています。

――なるほど。そのためには、自分が頼っているものがすべて失われた後の人生観を持つことが大切なんですね。

自分が寄りかかってきたものを失ったあとの人生観は、前もって準備しておいたほうが良いと思います。できたら、早いとこそっちの人生観に切り替えたらどうですかね。いずれは嫌でもそうなるんだし。平均寿命が今80歳といっても、それが自分に当てはまるかどうかなんて分からない。30歳でがんを宣告されて死ぬかもしれない。40歳で交通事故にあうかもしれない。そういうことが起こる確率はゼロじゃない。

だから、生きている時にそういったことも勘定にいれて人生の設計をする方が賢明です。でも、怯える必要はぜんぜんないですよ。生きているうちに、じっくり考えといた方が結局は明るく生きられると思います。

老病死との向き合い方を教えてくれるのが禅

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――仏教によってそうした死生観と向き合えるようになるんですか?

例えば、あなたがすごく豪華なパーティへの招待券をもらったとしましょう。さあ、パーティを楽しむぞって、パーティ会場に行ったら、絶対に会いたくない人がそこに来ていた。僕らはどうするかっていうと、その人と会わないように、びくびくしながらそのパーティ会場を動き回るわけです。常にその人の動きをちらちら気にし続ける。これじゃあ、せっかくのパーティを心から楽しめないじゃないですか。自分としてはパーティを楽しもうとして、その人に会わないようにしているわけだけど、それ自体が楽しめない原因となっている。

でもね、その自分が会いたくないと思っている人は、本当はあなたのことを少しも気にしていないかもしれない。もしかしたら、仲直りしたがっているかもしれない。

この会いたくない人というのが、人生でいうところの「老病死」ってやつです。僕らはさまざまな手段を使って、それと出会わないように、極力避けるようにして生きている。だけど禅が説くのは、それとちゃんと出会っていく、向き合っていくということなんです。それについて悩むとか、見ないようにするのではなく、ちゃんと向き合ってそれを理解し、それと一緒にパーティを楽しめるようになることです。

――「老病死」と向き合うことで自分を自立させることができる、と。

禅は、その会いたくない人とちゃんと向き合って、理解することを勧めているんです。否認することをやめて、向き合うんです。なんで向き合うかというと、戦うためではなくて、相手をよく知るため。そうするとその人のことがより深く分かる。実は、自分と仲良くなりたがっていたとか、意外と悪いやつではなかったとか、恐れるような人じゃなかった、とかね。むしろ、ありがたい友人に思えてきたりする。

――坐禅をすることによって向き合うことができるようになるんですか?

坐禅するというのは、とりもなおさずそれをやることなんです。戦うでもなく逃げるでもなく、自己と世界が親しく触れあっているということが、坐禅の中で自ずと起きています。別に、さあ、これから向き合うぞって、身構えたり、力む必要はありません。ただ坐禅していれば、自ずとそうなっています。そして、それを深く味わっていけばいい。

もちろん生物だから痛いのは嫌だし、苦しみは避けたいっていうのはあります。でもだからといって、老いや病を避けて、それから逃げて健康を手に入れようとしても、それはしょせん手に入らないものなんですよ。生の中に老病死はセットになって組み込まれていますからね。だから、健康のコンセプトの中に、老いも病いも死ぬこともきちんと勘定にいれることで、健康幻想に振り回されないことです。人が悩むのは、間違った思考の中だけです。根拠のない考えや不安に引き回されるのを止めて、振り回されなくてもいい自分を育てること。禅はそういうかたちで、問題を解決するというよりも、解消することを目指しています。

――なるほど。不安から逃げ回らずに向き合うことで、問題の解消をするのが禅なんですね。

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「マインドフルネス瞑想をすれば、きっと何かしら問題を解決してくれる」

そう考えている方は多いのかもしれません。ですが藤田さんが教えてくれた禅の考え方は、自分自身の生命力にアクセスして、外のものに頼らずに自立することが大切だということでした。禅に興味を持たれた方はぜひ一度、自分が何かに寄りかかって生きていないか見つめなおしてみてはいかがでしょうか。寄りかかりなく自分の足で立っていることが健康の原義なのですから。

(取材・文・撮影:KenCoM編集部)

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