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2017.06.22

高学歴を捨てて禅の道へ。異色の禅僧に聞く本当の心と体の休め方【藤田一照さんインタビュー2】

KenCoM編集部

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美しい海や豊かな森などの自然を暮らしの中で感じることができる町・逗子。

そんな逗子の山奥にある茅山荘という古民家をご存知でしょうか。辺りは静かな林に包まれ、綺麗なウグイスの鳴き声がどこからともなく聞こえてくるこの場所に、藤田一照さんという住職が住んでいます。東京大学大学院生時代に禅に深く傾倒し、大学院を中退してまで禅の道へ進んだ藤田さん。そんな一風かわった経歴をもつお坊さんに、禅の魅力や本当に体や心が休まる瞑想のコツを伺いました。

お話を伺った人:藤田一照さん

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1954年、愛媛県生まれ。
灘高校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。
院生時代に坐禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。
33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導する。2005年に帰国し現在も、坐禅の研究・指導にあたっている。
曹洞宗国際センター2代所長。 著作に『現代坐禅講義 – 只管打坐への道』)、共著に『アップデートする仏教』、『安泰寺禅僧対談 』、『禅の教室』、訳書に『禅への鍵』『法華経の省察』、『禅マインド ビギナーズ・マインド2』など

東京大学の大学院を中退し禅の道へ

唯一の願いは「物事を知りたい」という気持ち

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――藤田さんは灘高等学校を卒業して、東大入学、そして東大の大学院で中退して、住職になった経歴を持っていますが、なぜいきなり禅の道へ進んだのでしょうか?

僕はもともと学歴に興味がなかった。唯一興味があったのは「知ること」です。「知りたい」っていう気持ちですね。

――禅の道に進んだのも、知りたかったから?何を知りたかったんでしょうか?

そうですね。高校生の時は宇宙の始まりと終わりを知りたいと思っていました。

そういうことは大学に行けば、ちゃんと勉強できるだろうと思っていたので、宇宙物理学みたいなことをやろうと考えていたんです。ところが、高2の頃に「宇宙を知りたがっているこの自分自身は何なんだ?」っていう疑問が湧いてきたんです。

自分自身を知るということは科学ではやっていないので、哲学をやろうと、理系から文系に専攻を変更して、東大に入ったんです。いろいろあったんですが、けっきょく、哲学的でもあり、科学的でもあるのが心理学かなと思い、教育学部の教育心理学科を専攻することにしました。

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――それで東京大学へと進学されるわけですね。

ふつうは卒業して就職をどうしようかという話になるんだけれども、その頃の僕は就職して働くっていうのはどうも気が進みませんでした。自分のこともろくにわかっていないのに、就職とか結婚とか、とてもそんなこと考えられないという感じでした。知りたいことがまだいっぱいあったので、そういうことを探究できれば、あとは飯が食えて、雨露をしのげればそれでいいや、ぐらいに思っていたんです。

人生の晩年には、山奥にある秘湯で湯男みたいなことをしてひっそりと暮らして、ある日人が訪れてきたら死んでいた、みたいな結末が良いかなって(笑)。あるいは、放浪の旅をしている途中で野垂れ死もいいいなあって。でも、それまでの間は、勉強することが好きで、物事を考えたり、知ることが一番嬉しいことだったので、時間の自由も割とありそうな大学の先生になろうってとりあえずは考えてました。

自分に答えてくれるもの、禅と出合った

――大学の先生になろうとしていたんですね。

そうです。だけど、心理学を学んでいるうちに、それがだんだんとつまらなくなってきて。心理学ってあくまでも科学ですから仕方がないんですけど、認知とか学習とか動機付けとか心の細かなところを区切り取って研究していくんですよ。でも、僕は宇宙に生きている自分をまるごと知りたかったんです。そんな時に、ある漢方医学の先生に出会いました。

漢方って、東洋医学だから手で気を感じたり、脈を指で診たり、舌を調べたり、お腹を触ったりして診断して、鍼とかお灸とか漢方薬を使って癒していくんですが、人間をまるごと扱っているんですよ。そういう東洋的な癒しの道と西洋の臨床心理学とを統合できたらすごいことになるんじゃないかと思って、その先生に指導を頼んだら「私の医学は禅が基盤だから、弟子になりたかったら禅の修行をしてもらわないとだめだ」って言われたんです。

「鎌倉の円覚寺の接心に行ってみなさい」と言われて、なんにもわからないまま1週間行ってみました。坐禅は全然うまくできなかったですけど、それで禅に「はまって」しまったんです。

そこでからだで知った禅こそが、僕が子供の時から持っていた大きな疑問に直接取り組んでいける伝統なんじゃないかって直感的にわかってしまった。それで、だんだん心理学より禅のほうが面白くなっていったんです。

――その疑問ってなんだったんですか?

無限の宇宙の中で、なぜ有限の自分がここにこうしているのか、いったいなぜ自分が生まれてきたのか、存在しているのかっていうことです。僕が抱えていたのは、存在そのものについての問いだったんですよ。

10歳のころから、そうした答えの出そうにない疑問が心の片隅にいつもあったんですが、その円覚寺で体験した禅のテイストがその疑問に一番しっくりくるなと感じました。直感的にこれが今の自分には一番必要なんじゃないかって。そして、いろんなお寺の坐禅会とかに坐りに行くようになりました。当時の僕はすでにいろいろなことをやっていて、学校に行けない子供の家庭教師とか、合気道とか、漢方の塾に内弟子として入ったり、大学院にも通っていた。それに加えて、坐禅も始めたから、毎日が忙しくて仕方がなかった。いろいろやっていることは確かにどれも面白いんだけど、そこに統一がないというか、全部バラバラな感じになってしまって…。それで、今はとにかく禅の修行に集中しなければいけないんじゃないかと思い始めたんです。

それで、禅以外のすべてをいったんやめて、修行道場に入ってフルタイムで修行しようという決断をしました。そこからいろいろな縁がつながって、兵庫県の安泰寺というところに行くことになるんです。このお寺は変わっていて、人里離れた山の中で田や畑を耕して、自給自足しながら坐禅を中心にした生活をするという場所でした。入門当時、僕は28歳でしたが、その時「まずは黙って10年ここで坐りなさい」って言われました。だけど、6年が経ったころに、師匠から、「お前、アメリカに行け」って言われたんです。

アメリカで禅を教える?!

田舎でアルバイトをしながら、禅を教える

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――いきなりアメリカへ…。

はい。師匠に言わせると、僕の性格はアメリカ向きだからって(笑)。

マサチューセッツ州西部の人里離れた林の中に、僕の先輩たちが建てた小さな坐禅堂があったんですけど、そこを指導するお坊さんが今いないから、そこへ行ってとにかくサバイバルしろと言われたんです。その禅堂には、禅に興味を持つアメリカ人たちが坐禅をしにきていて、そこに住んで彼らを指導する人を求めているんだそうです。「僕はここでまだ6年くらいしか修行をしてませんから、何も教えることができませんけど…」って言ったら「なにも教える必要はない。みんなと同じ飯を食って、みんなと一緒に悩んで、一緒に坐禅をしていれば良い」って。

すごく田舎なところでした。ときどき、熊とか狐がでたり、周りに住宅街なんて1つもない林の中。そういうところで、何でも屋のアルバイトしながら、18年余り暮らしました。

――アルバイトをされていたんですか!?

ペンキ塗りとか、大工とか、畑仕事とか、巻き割り、たまには大学で講義をしたりとか。とにかく近所の人から頼まれる仕事をする「何でも屋」をやっていましたね。

だから「職業はなんですか?」って言われても、特に決まっていなかったので困りました。金額は別に決めていなかったけど、大体、1時間で10ドルくらいもらっていました(笑)。

坐禅は”頑張って”はいけない

――現地では禅も教えていたんですよね?

そうですね。まずは、作法通りに坐ってもらって、坐禅を体験してもらうことから始めました。

僕の坐禅指導に特徴があるとしたら、身心の自然に任せて楽に坐るということを大事にするという点でしょうか。皆さん、坐禅をする時に、余計に力んで身心を緊張させるから長続きしないんです。筋肉が緊張するってことは、脳に刺激がいくから、ますます妄想が沸いてくるんです。それで、「考えちゃいけない」って思うから、さらに緊張が高まるんですよ。だから悪循環になる。むしろ体を緩めていけば、脳を休めることができるってことなんです。でもこれを理屈で考えてしまうと、「そうなるように努力します」って、また頑張っちゃう。そもそも頑張るっていうのはエゴの仕事なんですよ。

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でも彼らアメリカの人たちは、自分の努力によって全てを手に入れるっていう「Do it yourself」の精神が強い人たちです。こうした頑張りは仏教の修行においては、エゴが肥大するだけなので、熱心に見えるんだけれども実はとても困る。

だから、どっちかというと彼らの熱意に水を注ぐような指導にならざるを得ないんです。「まあまあ、肩の力を抜いて、リラックス、リラックス」って。もちろん、熱心さも必要なんですけど、質が変わらないと。日本人は逆に熱心さがなさすぎる。アメリカ人は熱心さがありすぎる。どちらにも共通するのは、自分のエゴで生きているということ。本当の自分とは何なのかを知らないのに、知っているつもりで、その知っている自分を押し出して生きている。それ以外のやり方に切り替えるというのが、禅の勘所なんです

暗闇を照らして目覚めることが「悟りを開く」こと

――知っているつもりで生きていくとはどのような状態なのでしょうか。

仏教用語で「無明」と言うんですけれど、これは、ちゃんと見える眼を持っているのに、目隠しをして世界は暗いと思って生きているような状態です。目を隠しているので、あてずっぽうで進んでいるんですよ。だから、あちこちにぶつかっちゃう。でも、目隠しを取れば、「ここに障害物があるな」とか「ここに穴ぼこがあるな」とか、簡単にわかるわけですよ。

目隠しをしたまま、現実を見ないで、想像というか夢の中で頑張っている。でも夢の中でいくら頑張ったからって、現実は何も変わらないでしょう?だからまずは目隠しをとること、つまりはっきり目覚めてもらわなければならない。眠っているような状態から目が覚めるということが悟りを開くってことなんです。

アメリカ人に教えた坐禅のコツとは

体に無理を強いてはいけない

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――どうやったら目が開くんですかね?

それが坐禅です。ちゃんと坐禅をしている時は、はっきり覚めている状態にあります。

でも、間違った坐禅をするとますます眠りが深くなることになります。アメリカの人たちはとにかく熱心で、オレが頑張るんです。「こうやるのが坐禅だよ」って言ったら、それを頑張って成し遂げようとする。でも、その頑張り方が問題なんです。これは今流行りのマインドフルネスも同じことが言えます。

――マインドフルネスも…、どういうことでしょうか。

僕たちがいるこちら側の世界って、いわば自我がひしめきあって競争しているバトルフィールドみたいなものです。そんな中で「なんとかストレスを解消して勝ち抜こう」とか昔流行った「24時間戦えますか?そのためにはこれが役に立つ!」みたいな精神で、マインドフルネスに望みがかけられている、そんな気がします。

けれど、何か決まったメソッドを、それがいいからといって一方的に自分に押しつけると、体も心もそれに抵抗するのが自然というものです。瞑想や坐禅で言われるのは「調身」「調息」「調心」ということです。体と呼吸と心を調(ととの)えるということですが、この「調」とは自分が何かをコントロールすることだと思っている人がいます。だから坐禅をする時、足が痛くても我慢してじっとしていなくちゃ、ってなるんです。

大切なのは自分の体の声を聞くこと

――なるほど。我慢することが瞑想だと思ってしまっていると言うわけですね。

多くの人が坐禅をする時、その理由もわからず脚を組んでやっています。でもよく考えたら、コントロールしようよしている体や呼吸の合意を得ていないでしょう。「こういうことしていいですか?」って、体や心の許しも得ていないし、「本当はこうしたい」という心の言い分も聞いたこともないでしょう。こういうやり方は身心を機械扱い、物扱いしているってことになりませんか。僕たちは頭が司令塔で、体は機械かロボットみたいに、こっちの命令に従って、その通りに動くべきだと思っているんですが、体はロボットじゃないんです。心と体は実際は一体のものなんですよ。

一方的に命令をして、体が動かなければ無理無体に鞭打つ。コーヒーとか栄養ドリンクをがんがん飲んだりとかして。僕らはそれが普通だと思っていませんか。だから当然のことなんですが、頭が体や呼吸や心を無理矢理にコントロールしようとすると、異議申し立て(痛み・退屈・妄想など)が生じてきます。でも、僕らはこの異議申し立てに対して、「先生がそう言っているんだから、言うとおりにしろ!」って、また上からもっと力づくで押さえつけようとする。そうなるとまた抵抗が生まれる。…悪循環ですよね。

そうなると坐禅がバトルフィールドになってしまう。それで「このバトルに勝つためにはどうすれば良いでしょうか」と質問されるわけです。でも、坐禅をバトルにしているのはあなた自身じゃないですかって話です。

生きているだけ、ただ存在しているだけの状態にする

――どうずれば瞑想をバトルフィールドにせず、心や体を休ませることができますかね?

自我はいつもどこかに問題がないかって探しているんです。問題を見つけて解決しないと満足感が感じられないから。自我というのは、「オレって頑張っているでしょ。見て、見て」っていう”かまってちゃん”なんです。修行もそういう態度で行っていると、「オレはこれだけ苦労してるぞ」、「痛いけど、つらいけど、それに耐えてがんばっているぞ」と自己満足、自己陶酔になってしまうわけですよ。でも、大切なことは、そういう物足りたいという思いを手放して、淡々とただやるということです。

ただ生きているだけ、存在しているだけの物凄さ、そのことの神秘さに触れて、エゴを手放して、それに振り回されていないあり方を知ることが、禅なんです。あたりまえの日常をいかに深く生きるかが大切なんです。人と違うことをやって「どや顔」することではないんですよ。

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疲れたら栄養ドリンクを飲む。睡眠不足だったらブラックコーヒーを飲む。私たちの生活はそうやって何かに寄りかかりながら成り立っているのかもしれません。しかし藤田さんのお話によれば、こういった頑張りはエゴの表現であり、マイナスの循環を生み出してしがちです。今一度、自分の暮らしや生き方を見つめなおし、日常をいかに淡々とあたりまえに過ごすことができているか、そして自分自身の生きる態度に問題はないのか、ゆっくり吟味してみてはいかがでしょうか。

(取材・文・撮影:KenCoM編集部)

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